森永です。
神戸に避難中の母が昨年末から具合が悪く、
一時は大丈夫だと思っていましたが、3日に心肺停止で救急搬送、11日に83歳で亡くなりました。
その間、子どもと神戸に行き、
毎日ただ病室で見ているだけしかできませんでした。
高齢者は環境が変わることが、ストレスだと言います。
関西出身でしたので、
寒さが厳しい長野よりも神戸の方がと考えた避難でした。
避難して約1年半の間に、だんだんと歩くのが大変になり、
ヘルパーやデイサービスの世話になりました。
本当によく面倒を見てくださるケアマネージャーや事業所の職員の
方たちのおかげで笑顔も見られたことが、報告の文書や写真でよくわかりました。
今回は、食べ物をのどに詰まらせたことがきっかけです。
よくあることですが、介護の場では、医療行為ができず、
結果的に低酸素脳症がおき、内臓すべてが持ちこたえられなくなっていきました。
思えば、阪神大震災の3年後には父を看取りました。
一人娘なので、最後はわたしがすべてを引き受けることになると、
その時覚悟をしました。
母は、
きっと私に永い間看護をしなくてよいようにはからってくれたよう
な気がします。
まだまだ母が残したさまざまな物事を整理する仕事が残っています
。
私たちはまだ福島の家に多くのものを残してきています。
それらの整理にも行かねばならないと思っています。
その時には、なたお世話になります、よろしくお願いします。
母の入院中、
避難していた部屋の母の寝ていた毛布にくるまって寝ていました。
ものすごく嫌な頭痛に悩まされ、
一度子どもと寝る場所を交代したら、子どもが鼻血を出しました。
すぐにその毛布を処分しました。
まだ放射性物質が残ったままだったのでしょう。
私たちが被曝者であることを思い知らされました。
と、
同時にこれからだんだんと生きられる場が狭まってくるのかとも思
いました。
1月は助成金申請や子ども信州ネットの準備など忙しい時期です。
スタッフには大変迷惑をかけました。ありがとうございます。
陰で助けていただいた皆様にも感謝します。
私が「手をつなぐ3.11信州」や「子ども信州ネット」
を呼びかけたのは、
当事者がさまざまな家庭の事情を抱えながら、
避難という毎日が非日常の中で生きていること
その状況を一人では乗り越えられなくなること、
不安になることは、往々にしてあるだろう、
だからこそその大変さを理解できる当事者が繋がって助け合えるこ
とが大切であること
また、
県内で私たち被災者を支援してくれる団体もそれぞれが抱えている
問題を共有し、
解決策をともに考え、
それぞれが全体の一つとして動ければ新しい仕組みができると思っ
たからです。
当事者の皆さん、
困っていることを正直に困っているという勇気を持ってください。
困っている人に気づいたら、まずは声をかけてください。
何もできないときは、何もできないと連絡してください。
困っていることいえずに困っている人がいることを忘れないでくだ
さい。
これまでピラミッド的な組織になれた私たちは、
ともすれば早い解決を望み、強いリーダーシップを期待します。
でもそれでは、311前の社会と何ら変わりはありません。
私たちは、その効率化のための犠牲になったのです。
ゆっくりと、すこしずつでもいいから、お互いをおもいやり、
ゆとりをもって助け合える社会を作りましょう。
支援者の皆さんの期待に添えないことも多々あろうかと思います。
だからこそ息の長い、よりそった支援が必要なのです。
国策として復興を目指さないと思われている私たちのような避難や
保養には助成金が少なくなっています。
命を守るというあたりまえのことがあとまわしで何が復興なのかわ
たしには理解できません
支援者の皆様には、
さらに厳しくなった被災者の状況をご理解いただき、
本年もご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
手をつなぐ3.11信州 代表 森永敦子